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ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵) : ミニ英和和英辞書
ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)[はくしゃく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [はつ]
  1. (n,adj-no,n-suf) first 2. new 
初代 : [しょだい]
 【名詞】 1. first generation 2. founder 
: [よ, しろ]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
: [はく]
 【名詞】 1. count 2. earl 3. eldest brother 4. uncle 5. chief official 
伯爵 : [はくしゃく]
 【名詞】 1. count 2. earl 

ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵) : ウィキペディア日本語版
ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)[はくしゃく]

初代チャタム伯爵、ウィリアム・ピット(, 1708年11月15日 - 1778年5月11日)は、イギリス政治家貴族
1735年ホイッグ党庶民院議員に当選し、政界入り。ウォルポール首相の「軟弱外交」を批判するタカ派若手政治家として頭角を現し、庶民院で影響力を拡大させた。1757年から1761年にかけて第2次ニューカッスル公爵内閣でを務め、七年戦争を実質的に指導し、インド亜大陸北アメリカ西インド諸島などの植民地フランス勢力を駆逐することに成功し、大英帝国の基礎を築いた。その後、首相(在任:1766年7月30日 - 1768年10月14日)も務めたが、首相時には大きな業績はなかった。
通称大ピットフランス革命戦争ナポレオン戦争時の首相ウィリアム・ピット(小ピット)は次男である。
== 概要 ==
1708年に大地主の庶民院議員の息子として生まれる。オックスフォード大学オランダユトレヒト大学で学んだ後、1735年に庶民院議員選挙に当選して議会入りを果たした(→''議会入りまで'')。
ホイッグ党に所属したが、当時はホイッグ党優越の時代であり、トーリー党が脅威でなかったため、ホイッグ党内で党派対立があり、ピットもロバート・ウォルポール首相の「軟弱外交」を批判する若手タカ派議員として活躍。やがて庶民院で大きな影響力を持つようになった(→''最初の野党期(1735-1746)'')。1746年にはヘンリー・ペラム首相の求めに応じて、に就任し、続く第1次ニューカッスル公爵内閣でも留任したが、処遇に不満を抱き、政権内から政権批判を行うようになったため、1755年に罷免された(→''ペラム・第1次ニューカッスル公内閣陸軍支払長官(1746-1755)'')。
1756年七年戦争が勃発し、その戦争指導の失敗でニューカッスル公爵内閣が総辞職すると、代わってデヴォンシャー公爵を名目上の首相(第一大蔵卿)、ピットを事実上の首相()とするデヴォンシャー公爵内閣が成立した(→''デヴォンシャー公内閣南部担当大臣(1756-1757)'')。
国王ジョージ2世ハノーファー優先策に否定的だったため、一時的に罷免されたものの、ピットなしでの政権運営は不可能な情勢になっていたので、1757年6月にはニューカッスル公爵と手を組んで第2次ニューカッスル公爵内閣を組閣することに成功し、同内閣に南部担当大臣として入閣、事実上の首相として七年戦争の指導にあたった(→''第2次ニューカッスル公内閣南部担当大臣(1757-1761)''、→''再就任の経緯'')。
ヨーロッパ大陸での戦いは同盟国プロイセンへの資金援助に留めて深入りせず、代わりに植民地でのフランスとの戦いに戦力を集中した。その結果、インド亜大陸北アメリカインド諸島などにおいてフランス勢力を駆逐することに成功し、後の世界最大の植民地帝国大英帝国建設の基礎を築いた(→''戦争指導と大英帝国の建設'')。しかし大陸での戦いはプロイセンの疲労で停滞し、1760年後半には国内で厭戦気分が高まり、同年10月に七年戦争の早期講和を目指すジョージ3世が即位したことで立場を弱め、スペインに対する宣戦布告の是非をめぐる閣内論争において国王の寵臣ビュート伯爵に敗れて、1761年10月に辞職を余儀なくされた(→''辞職の経緯'')。
下野後、再び野党となり、ビュート伯爵内閣とグレンヴィル内閣を批判した。とりわけグレンヴィル政権の植民地に対する課税政策に強く反対した(→''再度の野党期(1761-1766)'')。
政権の不安定が続く中、1766年7月末に至って安定政権樹立を望むジョージ3世から組閣の大命を受け、首相に就任した。またチャタム伯爵に叙され、貴族院議員に転じた。しかしこの頃から病が深刻になり、指導力を発揮できなくなり、内閣はピットの意思に反して対植民地強硬路線に傾いていき、アメリカ植民地との関係を悪化させた。植民地への重負担に反対するピットは閣内で孤立していき、1768年10月に至って辞職を余儀なくされた(→''大ピット内閣(1766-1768)'')。
下野後、三度野党となり、グラフトン公爵内閣やノース卿内閣を批判したが、同じ野党のロッキンガム侯爵派と連携できず、それがノース卿内閣の長期政権化につながった。1778年5月に死去。彼の派閥はシェルバーン伯爵が引き継ぎ、またチャタム伯爵位は長男のが継承した(''三度目の野党期と死去(1768-1778)'')。
首相時の業績よりも第2次ニューカッスル公爵内閣の閣僚期の七年戦争の戦争指導が最も高く評価されている。平民出身で長く庶民院議員だったため、「偉大なる平民」と呼ばれた。国王や貴族を侮蔑して憚らなかったため、国王ジョージ3世からは「反逆のラッパ」と渾名された。党派を嫌っており、全ての党派を解体して各党派の最良の部分を自らが「愛国首相」として率いることを夢見ていた(→''人物・評価'')。
首相ジョージ・グレンヴィルの妹と結婚し、彼女との間に3男2女を儲けた。そのうちの次男がフランス革命戦争ナポレオン戦争時の首相小ピットである(→''家族'')。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)」の詳細全文を読む




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